デジタルオーディオあれこれ

半田ごての人。紙と鉛筆だけではちょっと。

ブラームスのバイオリン協奏曲。エリカ・モリーニのウエストミンスター録音(1956)。

 オーディオ趣味とういうものは、今ではレッドリストにでも載りそうで、いずれ据え置きのステレオはホーローの看板だとかオート三輪とか七輪のような、過去の遺物になって博物館にでも展示されるのかと思う。でもその一つ前の世代のアマチュア無線などは、誰にも知られる事無く安楽死状態だから、昭和の遺物として語られる日があるならば、望外の幸せかもしれない。

 

 一つには場所を専有するし音が近所迷惑にもなるので、都会では難しい。装置自体はデシタル化して格段に進歩しているので、クラシックのオーケストラであっても部屋の広ささえ確保するならば、かなりの質が望める。過去の演奏家のコンサートを聴くことは不可能なので、その意味ではオーディオも捨てたものでない。

 

 改めてそう思ったのがブラームスのバイオリン協奏曲。エリカ・モリーニ(1904)とロジンスキーウエストミンスターでの録音。発売は1959でステレオ音源も出ているので、録音もその頃かなと思う。モノラルとしては最晩年で、最後の一花といった風情。

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 こういう過去の録音の多くは、CDでの復刻盤が出ている。これも探せばあるはず。でもそれにはほとんど意味がない。過去に沢山の辛酸をなめて、CDのみならずSACDでも同じ過ちを繰り返して、レコード会社にかなりの額を貢いでしまった。今はeBAYで中古レコードを買って、自作のADCでデジタル化して最新の音声編集ソフトで自分ちの再生装置に合わせて復刻したのを聞いている。

 

 市販品の復刻盤は、標準的な再生環境に合わせて編集している。CDとSACDでは若干の違いがあって、SACDはCDよりも少し古めの装置に合わせてある。昔風のデカいスピーカーを少し意識した編集。なのでオーディオに金をかけている場合は、SACD版の方が良く聞こえる事が多い。間違っても、44kだとかDSDだとかは関係しない。中身が違うので当然音も違うよ、という話。

 

 更に昔風のステレオとなると、もう完全な圏外なので市販品ではとても無理。自分で作るしかない。実際の所、音源を自作しないならば、クラシックのオーケストラを当時のまともな音で聞くのは無理。当時のミキシングは、当然ながら当時の主流の装置に合わせて作られているのだから。昔の音源は昔の装置で聞くのが良いという話は、そういう意味で筋が通っている。

 

 

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 こういう環境で聞く場合、最近のマイクが乱立したオンマイク録音は耐えられない。個々の楽器は鮮明に聞こえるので、今風の小さなスピーカーでならば良く聞こえる。そのためのオンマイク録音なのだから。アナログ録音かデシタルかには、やはり意味がない。お客さんの再生装置に合わせて録音方法も変わる。それと共にデジタル化したのは事実 であるけれど。

 

 このブラームスは、おそらく指揮者の頭上5mにマイクを置くような、伝統的手法かと思う。個々の楽器の鮮明度は劣るけれど、実際にコンサートホールで聞いている音に近いのはこっち。でもまあバイオリン協奏曲というのは鬼門ではある。ピアノならともかく、バイオリンの音量でホール全体に音は届かない。録音では一種の音響的キュビズムのお蔭で、ソロバイオリンをかなりの音で聞ける。

 

 初めて録音でバイオリン協奏曲を聞いた時、お客さんはたまげた筈。なんとまあハッキリと、バイオリンが響くことよのうと。どっちが良いのか何とも言えない。当時はきっと、その鮮明さが受けただろうなとは思う。コンサートの生と、キュビズムの録音とは全くの別物として捉えていたいたのかなと。

 

 ウエストミンスターというレーベルは、少なくともうちの環境ではモノラルの白眉。ステレオになるとかつての栄光は消えて、RCAの後塵を拝するのみの感があるけど、1950年代前半のモノラル録音に関しては、これ以上のものはない。自分で復刻するのであれば、中古レコードで十分にその真髄が聞ける。大抵の中古レコードは、送料の$20前後と同じぐらいで買える。これも確かその位。

 

 この人はハイフェッツと同じぐらいの時代に、華々しくアメリカでデビューして、天才少女と言われた。多くの他の音楽家と同じように、戦争の影響で故国を離れてアメリカへ。RCAの看板になったハイフェッツと比べると、弱小レーベルのウエストミンスターで、これまたなんとなく理由に想像がつく大手に縁のないロジンスキーとの組み合わせ。名前では些か劣るとしても、中身では全く負けないどころか50年代の録音(1956)としてはピカイチ。

 

 ブラームスの曲はバイオリニストを魅了するようで、多くの名演が残っている。あんまり詳しくないのだけれど、これを聞いていて素人にもアレッと思わせたのがカデンツァ。バイオリン協奏曲には、カデンツァという演奏家の即興に任せるような所が第一楽章の後半にあるそうで、ブラームス本人はここを書いていないので、今は初演したヨアヒム版が多く弾かれるらしい。

 

 一回り位後の世代で、これまた数奇な一生のジネット・ヌヴーもライブを含めて三回ぐらい録音している。彼女のは弾き方以外で特に気にならなかったから、ヨアヒム版だったのかも知れない。エリカ・モリーニは共演者をかなり厳密に選ぶ人だったらしい。カデンツァも相当吟味して選んだろうなと思う。

 

 ブラームスは、師匠のシューマンの未亡人のクララとの経緯や、重くるっしい鉛色の冬空を思い起こさせる作風からして、踏ん切りが悪い。吹っ切れてしまうベートーベンとは、同じドイツ男でもまるで違う。ベルリンフィルのような重々しさはドイツ気質なんだろうけど。うじうじした重苦しさと、ぶっ飛んでる重々しさ。なのでどうもブラームスは好きになれない。

 

 その鬱々とした曇り空から差し込んでくる明るい日差しのように、バイオリンが色彩を付けてくれるならば、ブラームスの重さにも意味は出て来る。彼女のカデンツァは(フーゴ・ヘルマン)、少しハンガリーぽくてロマの響きが何となくある。ヨアヒム版はブラームスが書きそうな旋律で、今一つ面白くない。ブラームスのケツをひっぱたいて活を入れるようなフーゴ版の方がふさわしい。

 

 因みにハイフェッツも書いているらしく、RCAの録音は自作版なのだろうか。聞いてみたけれど、さてヨアヒム版なのかそうでないのかは分からない。この人のRCA録音はどれを聞いても、はよう終わらせて一杯飲みに行こかといった按配で、情緒はない。シベリウスだけは好きだけど。

 

 オーディオ装置にそこそこの金をかけるのであれば、最近の録音は物足りない。江戸時代の絵師に曽我蕭白というバサラ者がいた。彼が言うには、画が欲しいならばワシに頼め、図が欲しいならば円山主水(応挙)が良いと。昔の録音は機材の性能の制約で、写真のような図は得られない。仕方なく人の感性に合わせて少しデフォルメした絵にしてしまう。写実的な図が欲しいのか、些か実物とは違うけれども真に迫った絵が良いのか。

 

 演奏家も昔は絵的だったと思う。絵的な演奏を絵的な録音で。モノラルかステレオかには意味がない。実際のコンサートは多分モノラルだし。デジタルかアナログかも同じく。良質のデジタルは空気のように何の色付けもしない。絵的な録音ならば絵的に、マルチマイクの最新録音ならば高精細の写真のように。それはドキュメンタリーではあっても、絵画とは別のもの。結局の所、再生音に何を求めるのか。画なのか図なのか。